高貴な塔の上階、暖炉の火に照らされながら、スヤスヤと腕の中で眠る赤子を見つめていた。
「この子は勇者なの?」
抱いている母の指をキュッと握ったままの赤子の手には見慣れぬ痣がある。
それは一種の紋様のようであり、これこそが勇者の証と言われている。
「そうよ」
優しく見つめるその瞳は優しさと愛情が溢れているが、それ以外にも複雑な思いをも写し揺れている。
「勇者ってなあに?」
「古の言い伝えでは、闇を打ち払う存在。人々の希望…」
今、世界は一往に平和である。
世界の国々の王が会合に集まり永続的不可侵条約を結んで久しい。
大きな争いもなく魔物の脅威も兵士により抑えられている現状。
とある一国が滅んでから久しい。
沈黙する闇が徐々に燻っているそんな予感がする。
「この子が大きくなった時、世界はどうなるのかしら」
精霊が、大樹が、この子を必要としている。
選ばれし子。
選ばれてしまった子。
人々は警戒するであろう。
この子のために我々ができることは、未然に防ぐことである。
戸惑いながら夫婦二人で全世界の王達にこのことを明かす決意をした。
いざという時、この子の負担を軽くするために全力を尽くそう。
「大丈夫よ。私お姉ちゃんになるんだもの。ちゃんと、護るわ」
同じように赤子を見つめていた少女は立ち上がって、トンと胸を叩く。
「…マルティナ」
「エレノア様は私のお母様になってくれたもの。弟の世話は姉の仕事だって教わったわ」
少女…マルティナには母がいない。
体が弱くマルティナが幼い頃に亡くなったのだ。
寂しさを押し殺していたマルティナに異国の友好国の王妃であるエレノアが手を差し伸べたのだ。
『同一になることは叶わないけれど、母と思って甘えて欲しいわ』
その言葉にどれだけ救われたか分からない。
時折しか会うことは叶わなかったが、訪問時と来訪時の際に必ずマルティナとの時間を作ってくれたのである。
「ありがとう。息子をよろしくね」
「うん!」
和やかな会話が繰り広げられる。
そうこうしているうちに晴れていた空は急激に曇り、パラパラと雨が降り始めた。
そして、この国の終わりを迎える。
「姫、姫や」
ハッと目を覚ます。
どうやら、時間を持て余しているうちに寝てしまっていたのであろう。
まだ、重い頭を振り覚醒を促す。
「ロウ様、申し訳ありません。うたた寝してしまいました」
同じように寛いでいたであろう老人——ロウに謝罪する。
「かまわんよ。起こすのは忍びないと思ったのだが、魘されておったのでな」
出発にはまだ時間はあると笑みを見せてくれる。
悪夢、悪夢だったのだろうか。
とても懐かしい優しい夢。
「…ありがとうございます」
起き上がり乱れた服を整える。
悪夢なのは、今見た夢の先。
魔物が押し寄せ、全てを破壊した所だろう。
いや、約束を果たせなかった。
弟として彼を護ると豪語したにも関わらず、託された揺かごを手放し流されるのを見送るしかできなかった。
消息不明となったエレノアの息子。
あの平和な夢の中に映る、無知で無力な自分の姿が苦しかったのは確かだ。
「………」
思わず彼の名を呼ぶ。
普段は呼べない、呼ぶことが憚れる。
彼の名前を聞くと辛くなるのはマルティナだけではない。
彼女以上に肉親であるロウの方がより一層辛いはずである。
その彼に助けられた命。
恩返しでロウに全てを捧ぐ一心である。
「辛いか? 本来なら姫であるお主がな」
首を横に降る。後悔はしてもし切れない。
涙は十六年前に置いてきた。
「父に捨てられた身。今の状況を選んだのは私です」
何度繰り返されたであろうやり取り、遣る瀬無い思いは多くあれど、謎がほんの少しずつ解かれてきた。絶望しかない中での希望。
母であるエレノアの死を無駄にしない。
「しかし、お主の父は…いや、そうだったな」
例え、国王である父が闇の存在に操られて今正気ではないにせよ、マルティナがもう国へは戻れないのが現実。
ロウと共に歩める事の有り難さが身に浸みている。
マルティナ一人では疾うに朽ちていただろう。
「さぁ、行きましょう。あの景品は取る価値があります」
手に嵌めたグローブを締め直し、強気の笑みを浮かべる。
前に進むしか道がないのだから。
そんなマルティナに、何も言わず同じように笑みを返して腰を伸ばすロウ。
この優しい瞳はエレノアに良く似ている。